礼拝の聖書的な理解を求めて [479回参照されました]
stephanさん
がこの本を手に取りました。stephanさんは、これまでに4冊の本を読み、913ページをめくりました。
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本の紹介
 | 100% [全221ページ]  |
状態 | 読み終わった! 2010/07/15 17:01:03更新 |
著者 | |
ブックリンクされた本
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評価
未評価感想
読書の軌跡
4ページ | 2010/03/10 17:32:09 | 「礼拝」の問題は、いかに礼拝するかということよりも、礼拝の対象であられる神をどれだけ親しく知っているかにある |
23ページ | 2010/03/10 17:53:43 | 迷わずに聖書に向かう事がわたしたちの取るべき道 |
28ページ | 2010/03/11 14:10:06 | カルバン「礼拝において我々は受身である。なぜなら神がアクティブ(積極的)であるから」 |
36ページ | 2010/03/11 14:50:26 | 十九世紀のリベラリズムは、啓蒙思想という「理性万能」の思想に、教会が適応しようとしていった結果生じたものであると言えるかもしれません。 |
42ページ | 2010/03/11 14:56:34 | ハヴァー(hwh)ひれ伏す=礼拝。「神への畏敬と、神に対する徹底した従順が表されるところが礼拝なのです。」 |
46ページ | 2010/03/11 15:17:00 | 預言者について:なぜなら彼らは、モーセの律法のもとで成立した礼拝と、新約聖書のもとで成立していく礼拝との中間的位置に立っているからです。 |
51ページ | 2010/03/18 16:07:53 | 出エジプトの目的は神に仕え、神を礼拝すること |
53ページ | 2010/03/18 16:08:38 | 神を礼拝するにあたって、私たちには、救いの感謝と喜びがあるかどうか、本当に神の前に立っているかどうかということだけが問われていると思うのです。 |
55ページ | 2010/03/18 16:09:29 | 礼拝はworth・ship「価値あることを認めること」 |
56ページ | 2010/03/18 16:10:14 | 偽りの礼拝は、いつも、神を最高のお方と認めないことから生まれてきました。 |
56ページ | 2010/03/18 16:13:19 | ちょっと!テラフィムは、ヤハウェの像だったの? |
56ページ | 2010/03/18 16:14:10 | エポデも!? |
62ページ | 2010/03/23 09:12:41 | 私たちは今日、本当の詩人を必要としています。←讃美の歌詞の貧しさについて |
63ページ | 2010/03/23 09:14:02 | 「みだりに」=空虚に・内実のない |
68ページ | 2010/03/23 10:52:54 | 御言葉が朗読され、応答としての祈りがささげられるとき、その時に初めてすべてのものは聖くされる。 |
68ページ | 2010/03/23 10:52:58 | 御言葉が朗読され、応答としての祈りがささげられるとき、その時に初めてすべてのものは聖くされる。 |
78ページ | 2010/03/23 11:49:17 | レビ記が教えていることは、どうすれば「神に受け入れられる」か。あくまで主体が神にある。 |
80ページ | 2010/03/23 11:57:12 | ナダブとアビフの罪はその「自家製礼拝」。仮に善意であったとしても、私的に神を解釈しているところに、罪がある。 |
97ページ | 2010/04/07 16:45:55 | 礼拝がいのちを失っているからこそ、今、神ご自身よりも礼拝が問われているのだと言うと行き過ぎでしょうか。 |
97ページ | 2010/04/07 16:46:19 | 礼拝の貧困は、神を知る知識の貧困から来る |
97ページ | 2010/04/08 08:45:23 | カナンの「エル神」が牡牛 |
101ページ | 2010/04/15 16:06:20 | 大切なことは、聖書の「礼拝」が当時の周辺世界のそれとどう似ていたかということよりも、どのように違っているかということです。類似点よりも相違点こそ重要なのです。 |
102ページ | 2010/04/15 16:11:44 | <相違>バアルの祭司がモアブにいってケモシュに仕えることがあった。しかし、聖書の祭司はそういうわけにはいかない。 |
103ページ | 2010/04/15 16:12:39 | <聖書の礼拝の独自性>礼拝が倫理道徳と密接に結びついている。 |
103ページ | 2010/04/15 16:14:03 | <相違>異教においては、祭儀は道徳を超えており、祭儀の中では一般的には不道徳とみなされることも許された。また、おつとめが終われば、俗にもどれる、という感覚があったが、聖書のリフネーアドナイは全生活に共通する。 |
106ページ | 2010/04/15 16:27:08 | 第一神殿時代の祭儀の実際は不明 |
106ページ | 2010/04/15 16:29:51 | グンケル以来の詩篇の類型研究は、似通った詩篇を類別して共通点を見出したという貢献があるが、個々の詩篇の独自性を軽視するという問題もある。 |
110ページ | 2010/04/15 16:46:02 | 「都上りの歌」のほとんどは、内容から判断して、個人の経験がベースになっていて、後になって巡礼の時の集団で歌われたと考えられるでしょう。信仰は、まず神の前における個人から始まり、礼拝は信仰者の集団(礼拝共同体)において完成するのです。 |
115ページ | 2010/04/27 17:37:03 | 詩篇132篇9節・16節の祭司と民は並行法の観点から、同じ立場として共に礼拝の恵みにあずかっていると考えられる。 |
146ページ | 2010/05/25 13:17:39 | ローマ12:1のパラカレオーは、お願いではなく、権威を伴う勧告では?(内田) |
150ページ | 2010/05/25 13:18:13 | パウロがアデルフォイを使う時は、言いにくいことを言わなくちゃならない時? |
167ページ | 2010/05/25 13:32:50 | 「自分を変えなさい」だけでなく、「心の一新によって」も内田師は、受動的意味に解釈する。 |
174ページ | 2010/05/25 13:37:55 | 岡山師「黙示録は礼拝の書であり、礼拝で「朗読されるため」に書かれた」黙示録1:3」 |
183ページ | 2010/05/26 16:27:57 | 戦時下の日本の教会は、黙示録13章の「獣」幻の意味を理解することが出来ず、「獣」の礼拝と「小羊」の礼拝を同時に行い、ついに証人としての力を失った。 |
206ページ | 2010/06/01 13:49:41 | 礼拝を表すもっとも普通の語は「ひれ伏す」。聖なる神の前で罪ある自分を自覚することが大前提である。 |
221ページ | 2010/07/15 17:01:03 |
コメント
stephanさん(2010/03/23 11:06:03)
礼拝に関する書物の三つの傾向として。p71 遠藤師
「一つは、福音派サイドからの、求道者に焦点を当てた実利主義的な礼拝改革を訴えるもの。また、「スピリチュアリティー(霊性)」という言葉がこの時代のキーワードのように用いられていますが、そうした「霊性」という視点から「礼拝」をとらえようとしているもの。そして、第三は、礼拝史や礼拝学の研究に基づいて、歴史的、神学的、牧会学的な見地から、本質的に礼拝をとらえ直そうとするものです。第三の範疇の中には、プロテスタント教会の中に典礼的(リタージカル)な要素をもっと積極的に取り入れようとする動きや、教会暦に基づく礼拝プログラムを再評価するというような動きもあります。(しかし、この種の研究の多くは、旧約聖書時代の祭儀にまでさかのぼって考えるということがないようです。)
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