stephanさんの読書日記[公開中]
- 2010年07月15日
礼拝の聖書的な理解を求めてを読み終えました。
2010/07/15 17:01:03
- 2010年06月01日
礼拝の聖書的な理解を求めてを206ページまで読みました。
礼拝を表すもっとも普通の語は「ひれ伏す」。聖なる神の前で罪ある自分を自覚することが大前提である。
2010/06/01 13:49:41
- 2010年05月26日
礼拝の聖書的な理解を求めてを183ページまで読みました。
戦時下の日本の教会は、黙示録13章の「獣」幻の意味を理解することが出来ず、「獣」の礼拝と「小羊」の礼拝を同時に行い、ついに証人としての力を失った。
2010/05/26 16:27:57
- 2010年05月25日
発達障害のある人と楽しく学習―好みを生かした指導を78ページまで読みました。
学習者に一般的なコミュニケーション手段を獲得させるための指導プログラムであっても、その間、教師は、学習者の既存のコミュニケーション手段を理解し、それに対して反応できなければならない。
2010/05/25 17:30:23
礼拝の聖書的な理解を求めてを174ページまで読みました。
岡山師「黙示録は礼拝の書であり、礼拝で「朗読されるため」に書かれた」黙示録1:3」
2010/05/25 13:37:55
礼拝の聖書的な理解を求めてを167ページまで読みました。
「自分を変えなさい」だけでなく、「心の一新によって」も内田師は、受動的意味に解釈する。
2010/05/25 13:32:50
礼拝の聖書的な理解を求めてを150ページまで読みました。
パウロがアデルフォイを使う時は、言いにくいことを言わなくちゃならない時?
2010/05/25 13:18:13
礼拝の聖書的な理解を求めてを146ページまで読みました。
ローマ12:1のパラカレオーは、お願いではなく、権威を伴う勧告では?(内田)
2010/05/25 13:17:39
- 2010年04月27日
礼拝の聖書的な理解を求めてを115ページまで読みました。
詩篇132篇9節・16節の祭司と民は並行法の観点から、同じ立場として共に礼拝の恵みにあずかっていると考えられる。
2010/04/27 17:37:03
- 2010年04月16日
新編・風雪のビヴァーク (yama‐kei classics)を読み終えました。
2010/04/16 22:01:05
- 2010年04月15日
礼拝の聖書的な理解を求めてを110ページまで読みました。
「都上りの歌」のほとんどは、内容から判断して、個人の経験がベースになっていて、後になって巡礼の時の集団で歌われたと考えられるでしょう。信仰は、まず神の前における個人から始まり、礼拝は信仰者の集団(礼拝共同体)において完成するのです。
2010/04/15 16:46:02
礼拝の聖書的な理解を求めてを106ページまで読みました。
グンケル以来の詩篇の類型研究は、似通った詩篇を類別して共通点を見出したという貢献があるが、個々の詩篇の独自性を軽視するという問題もある。
2010/04/15 16:29:51
礼拝の聖書的な理解を求めてを106ページまで読みました。
第一神殿時代の祭儀の実際は不明
2010/04/15 16:27:08
礼拝の聖書的な理解を求めてを103ページまで読みました。
<相違>異教においては、祭儀は道徳を超えており、祭儀の中では一般的には不道徳とみなされることも許された。また、おつとめが終われば、俗にもどれる、という感覚があったが、聖書のリフネーアドナイは全生活に共通する。
2010/04/15 16:14:03
礼拝の聖書的な理解を求めてを103ページまで読みました。
<聖書の礼拝の独自性>礼拝が倫理道徳と密接に結びついている。
2010/04/15 16:12:39
礼拝の聖書的な理解を求めてを102ページまで読みました。
<相違>バアルの祭司がモアブにいってケモシュに仕えることがあった。しかし、聖書の祭司はそういうわけにはいかない。
2010/04/15 16:11:44
礼拝の聖書的な理解を求めてを101ページまで読みました。
大切なことは、聖書の「礼拝」が当時の周辺世界のそれとどう似ていたかということよりも、どのように違っているかということです。類似点よりも相違点こそ重要なのです。
2010/04/15 16:06:20
- 2010年04月08日
礼拝の聖書的な理解を求めてを97ページまで読みました。
カナンの「エル神」が牡牛
2010/04/08 08:45:23
- 2010年04月07日
礼拝の聖書的な理解を求めてを97ページまで読みました。
礼拝の貧困は、神を知る知識の貧困から来る
2010/04/07 16:46:19
礼拝の聖書的な理解を求めてを97ページまで読みました。
礼拝がいのちを失っているからこそ、今、神ご自身よりも礼拝が問われているのだと言うと行き過ぎでしょうか。
2010/04/07 16:45:55