坂の上の雲(八) [819回参照されました]
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本の紹介
100% [全397ページ]
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2020/02/26 15:25:59更新
著者 司馬遼太郎 ブックリンクされた本
-評価
★★★★★感想
(p34)ちょうど陽のよくあたる場所で田の面をながめている老農夫の顔のように平凡でしずかで、すこしの劇的要素もなかった。日本人は情景が劇的であればあるほど主観的要素を内部にしまいこんでしまうところがあり、東郷のこの光景は能に似ていた。
(p49)戦闘に出てゆく軍艦の艦内をすっかり消毒してしまうなど、世界の海戦史で例のないことで、環境衛生の歴史からみても珍例とするに足るものであった。つまり敵弾の炸裂とともに艦内の構造物のこまかい破片が兵員の体に入る。もし治療が遅れた場合、化膿してそのために落命するばあいが多い。これをすこしでも防ごうというのである。(そのために、石炭を捨てた後の炭塵で汚れた艦内を石鹸で洗い、消毒薬を噴きつけ、全員入浴し、下着にいたるまで新品の消毒済戦闘服を着た。さらに、砲側に砂を撒き、砲側が血みどろになっても兵員が足を滑らせないようにした。)…戦争が、人道と悪魔の作業を同時におこなうものだという意味では、これが最後の戦争といえるかもしれなかった。
(p153)「射距離は艦橋において掌握する」という「一艦の照尺の統一」の新思想が明示されている。
東郷の統率のおもしろさは、その原則を示しただけで、その実際上の運営法については各艦の艦長と砲術長にまかせたことである。
(p209)かれ(真之)がこのとき懸命に自分に言いきかせていたのは、この戦争がおわれば軍人をやめるということだった。じつは真之は艦橋から降りたあと、艦内を一巡してしまったのである。…負傷者が充満している上甲板は、真之が子供のころに母親からきかされておびえた地獄の光景そのままだった。どの負傷者も大きな砲弾の断片でやられているために負傷というよりもこわれもので、ある者は両脚をもぎとられ、ある者は腕がつけねから無く、ある者は背を大きく割られていた。どの人間も、母親のお貞がかれをおびえさせた地獄の亡者の形容よりすさまじかった。かれは、昼間、艦橋上からみた敵のオスラービアが、艦体をことごとく炎にしてのたうちまわっていた姿の凄さを同時におもいだした。…(どうせ、やめる。坊主になる。)と、みずから懸命に言いきかせ、これを呪文のように唱えつづけることによって、その異常な感情をかろうじてなだめようとした。
(p296)「ロシア陸軍は、国民の軍隊ではないからな」とだけいった。ロシアのその世界最大の陸軍は皇帝の私有物であるにすぎない、ということであろう。その軍隊が外国に負けたとき人民の誇りはすこしも傷つかず、皇帝のみが傷つく。皇帝の権威が失墜し、それによって革命がおこるかもしれない、ということであるらしかった。日本の軍隊はロシアとはちがい、国軍であると、好古はよくいった。好古は生涯天皇についでは多くを語らなかったが、昭和期において濃厚なかたちで成立する「天皇の軍隊」という憲法上の思想は好古の時代には単に修辞的なもので、多分に国民の軍隊という考え方のほうが濃かった。
(p311)明治は、極端な官僚国家時代である。…社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。そういう資格の取得者は常時少数であるにしても、他の大多数は自分もしくは自分の子がその気にさえなればいつでもなりうるという点で、権利を保留している豊かさがあった。…しかも一定の資格を取得すれば、国家生長の初段階にあっては重要な部分をまかされる。…このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。…楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
(p315)思想性とは、おおげさなことばである。しかし物事を現実主義的に判断するにあたって、思想性があることは濃いフィルターをかけて物をみるようなものであり、現実というものの計量をあやまりやすい。ときに計量すら否定し、「たとて現実はそうあってもこうあるべきだ」という側にかたむきやすい。芸術にとって日常的に必要なこのフィルターは、政治の場ではときにそれを前進させる刺戟剤や発芽剤の役割をはたすことがあっても、ときに政治そのものをほろぼしてしまう危険性がある。
(p318)日露戦争前、政府はもっぱら避戦的態度であり、自然、政府系の新聞とされる国民新聞や東京日日新聞は自重論であり、これら数種の新聞は経営の危機がつたえられるほどに人気がなかった。民衆はつねに景気のいいほうでさわぐ。むろん開戦論であった。学者もこれに参加した。
(p327)教科書というものは、人間が作るもので、ところがいったんこれが採用されれば一つの権威になり、そのあとの代々の教官はこれに準拠してそれを踏襲するだけになります。いま教科書がないために教官たちは頭脳のかぎりをつくして教えているわけであります。すなわち教官の能力如何が学生に影響するために、勢い教官は懸命に研究せねばならぬということになり、このため学生も大いに啓発されてゆくというかたちをとっております。まして戦術の分野にあっては教科書は不要であります。どころか、そのために弊害も多いと思います。…寺内もそれ以上言わなかった。寺内にはべつに定見があって言ったわけではなく、ただ「不秩序に流れる」というかれの好みでいっただけのことである。
(p323)明治は、日本人のなかに能力主義が復活した時代であった。能力主義という、この狩猟民族だけに必要な価値判定の基準は、日本人の遠祖が騎馬民族であったかどうかはべつにせよ、農耕主体のながい伝統のなかで眠らされてきた。途中、戦国の百年というのが、この遺伝体質をめざめさせた。そのなかでも極端に能力主義をとったのが、織田軍団であり、その点の感覚のにぶい国々を征服した。…江戸期は、能力主義を大勢としては否定した時代で、否定することによって封建制というものは保たれ、日本人たちはふたたび農耕型の精神と生活にもどった。それが三百年近くつづき、明治になる。明治には、非能力主義的に藩閥というものはあったが、しかし藩閥は能力主義的判定のもとにうまく人を使った。明治日本というこの小さな国家は、能力主義でなければ衰滅するという危機感でささえられていた。
(p341)参謀本部編「日露戦史」十巻は…作戦についての価値判断がほとんどなされておらず、それを回避しぬいて平板な平面叙述のみにおわってしまっている。その理由は、戦後の論功行賞にあった。伊地知幸介にさえ男爵をあたえるという戦勝国特有の総花式のそれをやったため、官修戦史において作戦の当否や価値論評をおこなうわけにゆかなくなったのである。執筆者はそれでもなお左遷された。
(p344)戦争が、その国を変質させる作用は、敗れた側よりも勝った側のほうに深刻である。
(p351)この天才(秋山真之)は、敵の旗艦スワロフやオスラービアなどが、猛炎をあげて沈もうとしているとき、そのことに勝ちを感ずるよりも、明治をささえてつづいてきたなにごとかがこの瞬間において消え去ってゆく光景をその目で見たのかもしれない。
(p359)小説とは要するに人間と人生につき、印刷するに足るだけの何事かを書くというだけのもので、それ以外の文学理論は私にはない。以前から私はそういう簡単明瞭な考え方だけを頼りにしてやってきた。いまひとつ言えば自分が最初の読者になるというだけを考え、自分以外の読者を考えないようにしてやってきた。
(p365)元来、一戦闘における勝敗の定義は軍事学の立場からいえばひどく定義づけの困難なものなのである。…ロシア側はその戦略的立場からみて、「これは敗けではない。単に陣地転換しただけである」といえば言うことができた。しかしそういう軍事学的な基準よりも、素人の国際ジャーナリズムが一戦局ごとに日本の勝ちを宣言し、すばやく世界中に宣伝してロンドンの金融街だけでなく、ペテルブルクの宮廷までにそれを信じさせたのである。…日露戦争におけるロシアは世界中の憎まれ者であった。というよりタイムズやロイター通信という国際的な情報網をにぎっている英国から憎まれていた。英国の報道機構がしつこく日本の勝利を報じ、その電報が各国の新聞に掲載された。極端にいえば満州の陸戦における行司役はタイムズとロイター通信であった。それによって国際的な心理や世論がうごかされた。
読書の軌跡
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229ページ | 2020/02/22 00:08:18 |
243ページ | 2020/02/23 00:38:14 |
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291ページ | 2020/02/25 00:08:26 |
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