「私」とは何か (講談社選書メチエ) [30回参照されました]
ぼみさん がこの本を手に取りました。ぼみさんは、これまでに18冊の本を読み、5,941ページをめくりました。
本の紹介
100% [全284ページ]
状態 読み終わった!
2012/05/16 00:24:29更新
著者 浜田 寿美男 ブックリンクされた本
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ピアジェの自己中心性→他者の視点からものごとを見れない。4〜5歳までに見られる
脱中心化→自分の視点を離れて他者の視点からものごとを考えられるようになる
脱中心化の各段階を経ることでおとなの段階では完全に第三者の目でものごとを純粋に考えられるようになる?
本源的自己中心性→私達は生まれたときから自分の体につきまとわれている。自分を通して世界を知る。どんなに脱中心化しようとしても自分の体の位置から世の中を生きる以外ない、という自己中心性
⇒生身の体の現実に即すると、人は本源的に自己中心的であらざるをえない。(完全なる自己中心性からの脱中心化は不可能)
思いやり=自己中心的利他性ともいえる(互いの立場に差がある場合特に)
3.なぜ表情が読めるのかー同型性
人は体をもって生きる故に個別的であるが、体を持っている故に共同的
身体はある種の表現性を常に備えている
共同性→二次的に獲得するもの?
⇒筆:本源的に共同的→同型性と相補性による
同型性:相手と同じ状況に溶け合う共同性の契機
相補性:自分と他者との差異の上で、相手と相互の主体性をやりとりする共同性の契機
同型性→出会った身体同士が同じような姿形をとってしまう。端的例は共鳴動作(赤ちゃんが動作を真似る、あくびがうつる(科学的根拠なし))→人は、同じ身体を持つもの同士として同じ表現の型を重ね合わせる、ことがもともと出来るようになっている。
あらゆる身体は他者の身体を予定している(例:男女)=予定性→共鳴動作も予定性のひとつ→本源的に身体が持っているもの
個ではなく類として考えると、共鳴動作などは類の予定性として組み込まれていると考えられる
他人の表情を理解出来るのはなぜ(泣いている顔をみてそれが泣いているという感情の表れであることをどうやって理解するのか)
→他者の表情と、自分の泣いたときの内からの感情とを等置できる何が、人どうしの身体に予定されている
4.目が合ったときー相補性
相補性→身体どうしがであった時に両者の間で交わされる<能動-受動のやりとり>。
目が合う→まなざしを送り、まなざしを感じる→他者から<向かってくる力>を感じる=能動と受動の契機
目を見る→眼球を見つめる→まなざしは感じない
見られる=相手が自分を見ていることを見る→相手を一人の主体として捉えている→ただの肉の塊ならぬ主体を感じている=人が持つもう一つの共同性
人間にとっては自分の主体性と並んで他者の主体性も重要な意味を持つ
他者を物体としてではなく、もう一人の人間=主体として感じ、そこに能動-受動のやりとり=相補性が成立するというかたちの共同性が、人間にとって最も基本的な生活の基盤をなす
4章
1.意味と無意味
人は、できごとをつねになんらかの意味の元に捉え、それを言葉で語る。人間の環境世界(人がその身体の内側から生きているもの)は、なによりも意味の世界として表れる
→身体がとらえる意味の世界のなりたちとはなにか?
意味≠価値
意味のないものは見つけにくいが、価値のないものは多い(足元のゴミ屑など)
意味→そのものへの振る舞い方
無意味→そのものに対してどう振舞って良いかわからない状態=不気味、恐ろしい
2.意味世界のなりたち
オルガナイザー→あるものの形成が隣接するものとの間の相互作用によって規定される(シュペーマンらの発生学の概念による)
三項関係は人間特有→一緒に見る≠同時に見る
一緒に見る→自分があるものを見ながら、相手もまたそのものを見ていることを自分が見ている
赤ちゃんは、既に意味世界を生きてきた人間との三項関係を作り、他者との共有経験をとおして、自らの空白な意味世界を埋めて行く(出発の時点では意味は見たされていない)
→前の世代から次の世代へ、意味世界が敷き写されていく過程=生きるかたちを伝える回路=文化の世代間伝達の最も基底にある回路
三項関係は意味世界のオルガナイザー
3.自閉症の子供たちの意味世界
人はその身体をもって同じ場に立ち合う。しかしそこにどのような意味世界を見るかは人によって違う。
相手を理解しようと思えば、相手がどういう世界を生き、その相手の内側に最大限たって見つめなおす以外に方法はない。
5章
1.「ワンワン」が犬になるために
言葉は<意味するもの>と<意味されるもの>の結合→言葉の生成そのものの過程にこの結合が予めあったわけではない
ことばの形成される場は、<意味するもの-意味されるもの>、<自分-相手>を交差させた四項関係による。
ワンワンが<意味するもの>になるために→図地分節によって、自分と相手の双方がワンワンを共同で図化する(声を認識し、周辺の刺激情報から声が対象にしている犬に意識を向ける)ことで、ワンワンが意味するものとなる
<意味するもの>と<意味されるもの>とが結びつく上での土台となるのが、<自分-相手の>の対人の軸
2.ことばの世界の敷き写し
2つの三項関係の重なり(=<既に意味世界を生きてきた人間の意味するもの-意味されるものの三項関係>と<ことばを知ることを予定されているものの三項関係>=<意味するもの-意味されるもの>、<自分-相手>を交差させた四項関係)のなかで、ワンワンが犬であるという結びつきをおとなの側から自分の方に敷き写し、<意味するもの-意味されるもの>の記号的関係を染み込ませていく。
3.言葉の対話性
?:ことばがコミュニケーションの媒体として子供達の世界でどのように働いていくのか
話すことは聞くこと
→自分の声が外の空気を通して自分の耳に達するのを聞いて始めて、自分の声が外へでて、相手に届いていることを確認している
聞くことは話すこと
→私たちは相手のことばを聞いたとたんに、そのことばを相手の視点から捉えている=話し手である相手の視点に立っている
人は話していながら聞き手の視点に立ち、聞いていながら話し手の視点に立つ→相互の視点の交換性こそが対話性の基盤
4.対話から私的世界へ
自他二重性:物理的な声のやりとり
自我二重性:自他二重性の背後にある、内的な能動-受動の力動
⇒ことばが対話となるには、自他二重性と自我二重性の両方が働いていなければならない
記憶や想像というかたちで、私たちは内なる他者に話しかけている→他者とのやりとりを離れて、独自の回路が回る=私的な世界の誕生
内なる他者との<能動-受動>の構図そのものが「私」
→生活の歴史のなかで積み上げてきた他者との共同的な関係の所産。生身の他者とあらたに出会えば、そこに他者を巻き込んで発動すべく構えている、あるいは逆に異物である他者を弾き出すべく構えている、そうした求心、遠心のからむ複雑な渦のような力動
「私」というものが他者との関係のなかから生まれてきたもの
「私」は、なにか実体として存在するようなものではなく、他者との関係を生きる<能動-受動>の構図を離れては成り立たないもの
⇒ことばが対話であるのと同じ意味で、「私」もまた対話という言い方も可能なのでは?
第6章
1.羞恥心にとりつかれた存在
「私は私だ」と思っているこの「私」が、じつは他者との関係のただなかに生まれてきたものである。そしてこの関係性のなかに生まれた「私」が関係性に囚われ、そこから抜け出そうとしてもがく。しかしもとより「私」が「私」であることをやめないかぎり、関係の罠から逃れることはできない。こうした逆説を私たちは日々生きている。
→羞恥心がこの一例
2.自己肯定と自己否定のはざま
①なぜ人は優秀だとか劣等だとかを意識するのか→人は比較の心性に取り憑かれていて、それでこと人間である(突き詰めると理由はわからないが)
②自分の劣等性を認めたとして、なぜそれを内密にするのか→自己肯定と自己否定のはざまに揺れて、それゆえに他者の評価が気になる(→だから隠そうとする?)
③内密にしようとしたものが露呈することがなぜ羞恥となるのか→人を羞恥の情況に追い込む他者の評価は、自分が他者から直接に受ける評価そのものではない→詳しくは3.へ
3.見られるということ
羞恥心の成立条件は、相手がどう思っているのかがわからなくても、相手がそこにいて、その相手が自分への評価を下しうる存在であるということ。
→目の前の他者に、自我二重性の回路によって、自分の内なる他者を投影してしまう
人はつねに見られるという心的構図の
中にいる→他者の視線に敏感になる。見る他者を投影的に作り出している
見られている感覚は「自分を見る自分」を自分のうちにかかえている証左
世間とは→自分側の基点と、周囲とのやりとりそのもののなかに根を張っているもの。自分のなかにも内的回路として染み込んでいる
日本は、個人を介してしか社会とかかわれない。(阿部謹也『日本社会で生きるということ』)
⇒「世間」のなかで「私」というものが成り立ち、そこでの<見る-見られる>関係のあり方が、世間的価値観とも絡み合って、羞恥心の具体的なかたちを生み出す。「世間の目」そのものが自分のなかに根をおろしている。
4.罠から抜け出すために
羞恥心の持つ積極的な意味:
自他二重性の構図そのものが「私」の核をなし、さらに自我二重性が根をおろしてこそ「私」が成り立つ。このやりとりのなかに「内なる他者」が登場し、それが世間の価値観を帯びて羞恥心をくすぐるのは、「私」というものが成り立っている健全なる証拠
「世間」はいわば有機的な結びつきを持ったもので、そこ中の編み目を成しているのが自己であり、その自己が世間をかえるなどというこもは考えられない。
→周囲の生身の他者と自己の関係は「世間」という名の有機的ネットワークのひとこま→「世間」を構成する個々の人々の関係のあり方は変化する→その意味では世間は変わりうる
⇒人の生きている関係のかたちがその人の心のかたちを決める
5.関係性から生まれ、関係性に囚われた「私」から
「私のこと、好き?」と聞いて、相手からの確認を受けることをぬきには自分を保つことがむずかしい。「私」は他者との関係から独立した実体的存在ではありえない。
人は原初的共同性からはじまり、前の世代と生き合うなかで意味世界、ことばの世界を敷き写して共同の世界を広げ、ことばを主軸とする<能動-受動>の回路とネットワークを張り巡らせる。
他方では他者とは別の一個の身体を生きるものとして本源的個別性を強いられている。
⇒ゆえに、ことばを主軸として張り巡らせてきた<能動-受動>の回路は、本源的個別性の上に「私」という内的世界をつくりだし、さらにそのもとものと個別性と並んで他者との共同性・関係性を深く絡みつかせている
読書の軌跡
284ページ | 2012/05/16 00:24:29 |
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